年末年始のこと

 1月11日。土曜日。

 東京の夜は赤い。星のない闇に、高層ビルの角だけが自我むき出しで鼻につく。思えば地元ではあんな色の光、踏切でしかみたことがない。東京は巨大な踏切なのかもしれない。苛立って貧乏ゆすりをしたところで、ビルの角はゆっくり自分のペースで点滅するからまた腹が立つ。もう少し気を使ってくれよ、東京。実家の最寄の踏切は、僕の心臓のBPMに合わせて点滅してくれていた気がする。

 

僕は、きょうから日記をつける。このごろの自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がして来たからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格がつくられると、ルソオだか誰だか言っていたそうだが、或いは、そんなものかも知れない。

 

 大学を卒業したって、山も、海も、花も、街の人も、青空も、まるっきり変わって見えてこない。聞いてた話と違う。悪の存在なんて、全くわからない。ただこの世には、困難な問題が、実におびただしく在るのだという事は、予感できる。間違いなく正義からは落第している。

 

 妹の成人式がもうすぐのようで、年末年始の帰省は慌ただしかったけれど、いつもよりちょっぴり色にあふれていた気がする。前写しを祖母と見に行った。赤の振袖だったと思う。ネイルもバッチリ決まって、あとは式当日を待つのみらしい。撮影した写真を妹や両親が選んでいる間、祖母の成人式の話を聞いていた。祖母は自分で振袖を縫ったらしい。そんな技術を持ち合わせていたのか、祖母よ。二十歳で、なんでもできるな、祖母よ。かたや大学を卒業した僕は、なんの技術も持ち合わせていない。強いて言えば、2年前から路上を自動車で運転してもよいことになっている。公に許可をもらってから運転したことは一度たりともない。初回講習を受けて、半目の新しい免許書をベリベリとけたたましくしまった後、父が迎えにきてくれるまで、財布を持って立ってた。財布も赤だ、ちくしょう。

 成人式は大人への通過儀礼だけれど、もはや境界としての体をなしていない。成人式以前以後で僕は何も変わっちゃいない。踏切の方がよっぽど境界だ。最寄の駅に行くためには川にかかった橋を越え、踏切を渡らなくちゃいけない。そこは境界記号のオンパレードだ。

 

 

 寝坊。朝食もとらず、出発。最寄駅までは歩いて15分、走って7〜10分。電車の発車は7:46、いまは……7:38。間に合うぞ。用水路沿いに細道を駆け、信号待ちの車が並んだ国道をスルスルと横切る。遠くでカンカンと音がする。間に合った。踏切に向かう橋の入り口の徐行標識が目に入ると、スピードを緩めるのがルールだ。ゼェハァと朝の電車に乗り込むのは、僕の美学に反している。

なんじら断食をするとき、偽善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは断食することを人に顕さんとて、その顔色を害うなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。なんじは断食をするとき、頭に油をぬり、顔を洗え。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在す汝の父にあらわれん為なり。さらば隠れたるに見たまう汝の父は報い給わん。

 その標識の基礎には幼児のスニーカーの足跡が残ったまま、固まっている。僕はその足跡が好きだ。それを見るたびに「どうにもならないことなんて どうにでもなっていいこと」だって口ずさみたくなる。

 

やっと、青だ。

 

 

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